甘いソースがたっぷりかかった懐かしい味のするお菓子。
それが『シン・ウルトラマン』を見た最初の印象だ。
このお菓子は懐かしい風ではあるが、今の材料で作られたものであり、「それっぽさ」はあっても別物である。そして、当時のお菓子に隠し味として加えられていたちょっとしたお酒や、香辛料はこの甘い甘いお菓子には含まれていない。とにかく甘くて美味しいけど、苦味もなければ辛さもない。胸やけのするようなしつこさがある。
『シン・ウルトラマン』は懐かしの味を求める人には一定の満足を与える作品なのは間違いない。だが、そこには大事な何かが欠けていた。鑑賞中も鑑賞後も、見事な映像を見た満足感よりも欠乏感や空虚な感覚の方が勝ってしまったのだ。その原因を考えていて、少しだけ分かったことがある。ネタバレに配慮するが、事前の情報を一切得たくない方は以下を読まないことを勧める。
胸やけするような甘いソースのベタ塗り
『シン・ウルトラマン』は冒頭からしてサービスに溢れた映画だ。初代ウルトラマンのファンならば確実に印象に残っている例のアレで始まり、その後のシーンでウルトラシリーズを俯瞰した繋がりを持たせ、いきなり暴れる怪獣を登場させる盛り上げぶり。『シン・ゴジラ』に引き続き、白組を中心としたCGチームによる絶妙な着ぐるみ風デフォルメを施した怪獣表現は絶品だ。その後登場するウルトラマンの胡散臭さを持たせた銀色の異星人としての表現、スペシウム光線発射後に残留するエネルギー表現など、現世代一級の特撮映画と断言できる説得力のある映像だ。この辺りは特技監督として名高い樋口真嗣監督の面目躍如といったところだろう。
ファンサービス的な部分も多く、初代ウルトラマンの戦い方の特徴であるプロレス風の戦闘スタイル(1960年代はプロレスブームがあった)があれば、八つ裂き光輪や高速回転してボールっぽくなるアレも繰り出す。効果音や音楽は当時の物をそのまま引用している徹底ぶりだ。効果音に関しては電話の着信音にも引用しているし、その他細かなネタを上げればキリがない。一度の鑑賞ですべてのネタを拾うことは困難だろう。ちなみに制作会社「カラー」の会社ロゴが表示される時の効果音は『帰ってきたウルトラマン』の変身時の音である。
初期ウルトラマンにおいてトリッキーな演出が見られた回を多く担当した実相寺昭雄を意識したようなカットが多かったことも印象的だ。実相寺の演出スタイルは同時代にフランスで起きていた映画運動ヌーヴェルヴァーグの作家に影響を受けたものと考えられるが、実相寺のトリッキーでスタイリッシュな表現が特撮やアニメ業界に与えた影響は非常に大きい。『シン・ウルトラマン』ではプロデューサーと脚本を兼任している庵野秀明は自身の監督作で実相寺的な演出を頻発していたし、樋口真嗣もまた実相寺からの影響が強い監督である。実相寺的な演出の例を挙げると、人物への極端なクローズアップの連続や意図的な逆光、物越しに人物を切り取るレイアウト等がある。『シン・ウルトラマン』では人物を映すカットのかなりの率がこれらの実相寺的レイアウトで成立していた。やり過ぎなほどに。
『シン・ウルトラマン』の映像的な刺激やサービスに関してはお見事というしかない。ここまでされればお腹いっぱいになるのは間違いないのだ。だが、溢れる刺激の中にはノイズも多分に含まれていた。
気になる感覚のズレ
気になった点のひとつが女性関連の描写だ。
本作にはウルトラマン役である斎藤工の相方として長澤まさみ演じる浅見弘子が登場する。彼女は非常に優秀な分析官で、キャリアウーマン。仕事のできる自立した女性として描かれているが、要所で気合入れとして尻を叩く。この時点でも十分気になる要素だが、その際に臀部のアップも入るし、劇中で何度も繰り返しているのにはセクハラめいた視点を感じずにはいられない。さらには中盤のあるシーンも過剰にセクシャルなニュアンスがあった。制作者としては会心のギャグのつもりかもしれないが、女性について映画内外で問題となっている昨今、この感覚は寒いオヤジの気持ち悪いギャグにしか見えない。
ウルトラシリーズでは女性隊員が多く登場していたが、本作のような描かれ方をしたことはなかったように感じる。初代ウルトラマンで桜井浩子演じるフジ隊員は特段女性であることを強調されておらず、仲間の一人として存在していたに過ぎなかったし、平成のウルトラシリーズ復活作『ウルトラマンティガ』においては女性が隊長を務めていた。程度の差こそあれ、いつの時代もウルトラシリーズはジェンダーの描写に関してはフェアだった。だからこそ『シン・ウルトラマン』の女性描写については大きなノイズとなった。
もうひとつ気になった点が、一般市民の存在感が希薄なことだ。
『シン・ゴジラ』の際にも気になっていた点であり、脚本を担当した庵野秀明の作家性ともいえるが、まともなセリフのある一般市民が一切登場しない。それどころか一般人が画面内に登場する瞬間もほとんどない。ウルトラマンの存在や作戦の遂行について市民に公表しようとしない政府、官僚や政治のトップの密約だけで進行していく点もまた『シン・ゴジラ』と共通しており、市民が物語に関わってくる場面では、市民を正義の邪魔をする烏合の衆であるかのように描いてしまっている。
ウルトラシリーズでは子どもを中心とした市民が多く登場する。市民の存在を描いたうえで、彼らの生活を脅かす怪獣や宇宙人と戦うのがシリーズの基本フォーマットだ。人類を驚異から守るのがウルトラマンだが、それ以上に彼が守っていたのは目の前にいる子どもたちの未来だったはずだ。市民の存在を描かない『シン・ウルトラマン』は口では人類を守ると言うものの、彼には人類の生活は見えていたのだろうか。人間性が見えない(そもそも外星人であるが)本作のウルトラマンは果たして私たちを守ってくれるのだろうか。信用できないよそ者としてウルトラマンを描くのが本作のテーマなのかもしれないが、それがヒーロー映画として正しいのかは疑問である。
初期ウルトラマンの隠し味
筆者は1990年代初頭の生まれで最初にリアルタイムで見たウルトラマンが『ウルトラマンティガ』と『ウルトラマンパワード』。同時期に再放送で『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』も見ていたし、それから遡ってシリーズ作はほとんど見ていた。平成のウルトラマンも夢中になって見続けていた。もちろん、他の特撮番組やアニメなども見ていたが、ウルトラマンほど私の心を掴んだ作品はなかった。では、何にそれほど惹かれていたのか。
毎回登場する多様な怪獣デザインには心が躍ったし、巨大な存在同士のバトルや派手に破壊されるミニチュア特撮は今も大好物だ。でも、それならば他の番組でも問題なかったはず。大きな違いはウルトラマンのシナリオを執筆していた作り手の存在だったと思う。中でも初代ウルトラマンのメインライターだった金城哲夫は少年期の筆者に大きな影響を与えた。
返還前の沖縄出身で、早くに上京した金城は20代の若さで円谷プロの企画文芸室の主任として次々と企画を立案。『ウルトラマン』では基本設定の作成や多くのシナリオを執筆し、他のライターが書いたシナリオの監修も担当していた。ウルトラシリーズの最大の貢献者の一人である。ウルトラマン本編を見ていると、堅実な娯楽作を量産しているような印象はあるが、人類の敵として排除される怪獣に対する共感の目線や、よそ者であるウルトラマンの孤独を描いていたことにも注目するべきだ。シリーズを通して明るい雰囲気のあった初代にはほんの少しエッセンス的に含まれていた程度だが、それでも漠然とした自己の存在への不安があった筆者にとって、作中で描かれていた孤独なものたちには救われる感覚があった。故郷を離れて独り子どもたちのために戦うウルトラマンは少年の私にとってはどんなヒーローよりもカッコイイ存在だった。
金城はその後の『ウルトラセブン』もヒットさせたが、自身が企画した『マイティジャック』が低調に終わってしまったことがきっかけで円谷プロを退社。沖縄に帰って本土と沖縄とを繋ぐ活動に尽力していたものの、事故で早くに亡くなっている。故郷から離れて暮らす金城にとってウルトラマンは自己を投影したヒーローでもあったのかもしれない。
故郷への思いを持ちつつ、子どもたちのためにヒーローを描き続けた金城のような精神性は『シン・ウルトラマン』には無かった。そこにあったのは砂糖たっぷりの甘いソースのような映像であり、心の読めないよくわからない銀色の外星人と一般的な感覚の欠如したお上の存在だけだった。ほんの少し混ぜられた苦味や辛さで子どもたちに勇気と厳しい現実を教えてくれたウルトラマンはそこにはいなかった。『シン・ウルトラマン』は私を救ってくれることはないだろう。
コメント