9月1日は「防災の日」として知られているが、なぜ9月1日かを知っている人は少ないのではないだろうか?
台風が大雨などの災害が起きやすい時期というのもあるが、1923年の関東大震災が発災日であることがきっかけとなっている。
2023年は地震から100年目ということもあり、各地で様々な取り組みが行われているが、今回取り上げる『福田村事件』は関東大震災から5日後の9月6日に千葉県東葛飾郡福田村で起きた虐殺事件を題材にした作品だ。
その時、何が起きていたのか?
作品自体について書く前に前提となる背景を書いておこう。
関東大震災の直後には朝鮮人が井戸に毒を流した、強姦・強盗を行っているといったデマが流れ、戒厳令が発令、さらには各地で朝鮮人の虐殺が起こることとなった。殺されたのは朝鮮人に限らず、社会主義の活動家も多く殺害された。
福田村は最も被害のあった地域からは離れているものの、被災した人々が逃れてくることもある位置関係だったためか、朝鮮人が村を襲うかもしれないという疑心暗鬼にかられていたようだ。そんな状況で村に通りがかった香川からの薬の行商人たちに朝鮮人であると疑いの目が向けられ、ついには幼児や妊婦を含む9人が殺される事態となった。自警団員が逮捕されたものの、大正天皇の死去に関する恩赦によってすぐに釈放されている。事件はほとんど報道されることはなく、太平洋戦争終結後から数十年経過した後にようやく日の目を見ることになった。
複雑な時代と状況を分かりやすく
本作を観て感じたのはかなり分かりやすい映画になっていることだ。社会問題や歴史的事件を扱った映画は基本的にその問題に対して興味がある人しか観ないという問題があり、映画も極端に前提知識が必要になったり、興味がある人向けに作られてしまう傾向はあるのだが、本作の場合は様々な視点で描く群像劇スタイルにしたことで伝わりやすく、筆者を含めた事件について詳しくない観客でもスムーズに見ることができる点が優秀な映画作りだと思う。
群像劇スタイルで描く上で様々な立場の人物が登場する。教師として赴任していたがあることをきっかけに福田村に帰ってきた朝鮮帰りの夫婦、夫が出征中に船渡しと関係を持っていた寡婦、千葉の新聞社に務める女性記者、元軍人の会の所属者、日露戦争で従軍していた老人、東京で社会活動を行う活動家、香川からの行商人の棟梁など登場人物はかなり多い。
人物が多いのは確かだが、それぞれになにかしたらの役割を分担し、立場を象徴するような人物配置を行っているためか、人物関係の把握で混乱することはないだろう。特に女性記者の視点は現在的な視点のため、観客とほとんど同じような見方で進行してくれることで複雑な状況への理解を助けてくれている。
森達也のジャーナリズムとエンタメ性
本作の監督は森達也。これまでドキュメンタリー映画で数々の話題作をモノにしてきたが、劇映画は今回が初監督となる。
オウム真理教を扱った『A』であったり、ゴーストライター問題のあった音楽家の佐村河内守に密着した『FAKE』などパンチが効いている話題選びが特徴だが、それらの作品にはエンタメ性も多分に含まれていることは注目すべき点だ。パンチの効いた題材の力だけで進むのではなく、どういった構成や編集ならば効果的にメッセージを伝えることができるのか?どうやったら観客を楽しませることができるのか?を常に考えているような作風は劇映画でもそのまま役立っている印象だ。
当然ながら、森監督の作品にはジャーナリズムの感覚も十分に含まれているわけで、『福田村事件』では事件が起こった当時の状況について様々な視点から考察がされている。
例えば、行商人一行は薬を売って移動する生活をしていたが、薬の効果が現れる頃にはその土地を離れているわけで実態は詐欺まがいの商売だったりもすることが描かれる。劇中では「らい病」(ハンセン病としても知られる)の患者たちに対して特効薬として薬を売る場面があるが、当然その当時は特効薬など存在しない難病である。らい病患者は皮膚に現れる症状から不当な差別の対象とされた事実があるが、薬を売る行商人の一行は被差別部落の出身者だった。福田村事件を描くには不必要な場面ではあるものの、被差別者たちの間での食い合いが存在することを描いていることは監督や脚本家のジャーナリズムの現れだろう。
近年のハリウッド映画で歴史ものを描く際に時々話題となる言葉遣いについても本作は明確に意識がされており、朝鮮人のことは「鮮人」と呼ぶし(ロシア人のことを「露助」と呼ぶのと同じノリだと思う)、行商人たちは自分たちのことを「えた」と言う。これらは差別用語のため、現在は明確に使うべきではない言葉だが、当時の日本人にとっては日常的に発する言葉だったはずだ。差別的な言葉だからと排除せずに差別的な言葉を使っていたことを描くことで、差別の事実から目を背けていないのは良い点だ。
分かりやすさとトレードオフ
的確な人物配置や現代的なジャーナリスティックな視点の挿入で非常に見やすい映画になっているのは良いことなのだが、分かりやすいことで起きる問題を抱えてしまっているのが本作の弱い部分だと思う。
様々な視点はあるものの、やや現代的な視点に寄りすぎている印象はあり、事件が起きたことに批判的なメッセージが見えてしまっている。複数の視点はあっても、元軍人たちの心理に密着している瞬間はなく、旧時代的な愚かな軍国主義の集団に見えてしまう。実態として愚かな軍国主義者だった可能性は高いが、朝鮮帰りの夫婦や行商人たちの描写に比べて作中で内面に迫る瞬間が極端に少なく、分かりやすい悪役の域を出ていない。逆に内面に迫った場合には上映時間はもっと長くなってしまっただろうし、観客も混乱してしまうかもしれない。この点はわかりやすさとトレードオフになった要素だと思う。
わかり易すぎてしまった傾向はあるものの、船渡しと寡婦の関係性や老人介護とエロ、冷えた夫婦のモヤモヤした感じなどエロスの要素がアクセントとして機能しているため平板な印象からは逃れられている。この点は本作では脚本と企画で参加しており、自身の監督作ではエロスを追求している荒井晴彦氏が貢献した部分なのではと予想する。
狙った感のあるキャスティング
キャスティングも興味深い本作。
船渡しの間男を演じるのが不倫問題のあった東出昌大というのは意地が悪いが、村民を扇動する元軍人の役に水道橋博士を配役するのも凄い。
水道橋博士はれいわ新選組の比例代表選で当選し、2022年に参議院議員となったがその後鬱病の発症により休職。最終的に議員は辞職している。撮影時期を考えると、本作の右翼的な役が精神状態にも影響していそうだ。劇中では小柄な水道橋博士がややオーバーサイズ感のある旧日本軍の軍服を着ているところが絶妙に浮いている感覚があって、軍属だったことにすがっているような内面が見え隠れするのは面白かった。
どこかで起きている、これからも起きること
本作で描かれているのは100年前の出来事ではあるが、今の我々にとって無関係の出来事ではないどころかむしろ現在的な問題だ。デマに流され、見知らぬ誰かを糾弾するのはSNSでは頻繁に見られる光景である。メディアの記事を曲解する人、フェイクニュースに踊らされる人、陰謀論を加速させる言説などどれもが100年前よりも極端で複雑な状況だ。100年前の人々が愚かで前時代的な思考に囚われているから起こった事件と断じてはいけない。これはいつの時代も起きているし、これからも起こる他者への無理解と差別意識が起こす普遍的な問題だ。
福田村事件はいつでも起こりうる。程度の差はあれど、きっとどこかで繰り返される。その時にこの映画のことを思い出して、せめて最悪の行動だけはしないように心がけたいものだ。
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