2015年の映画『マッドマックス 怒りのデスロード』はここ10年で比肩するものがないほどの完成度の高さを誇る傑作であることは疑いようのない作品です。元からシリーズを見ておりましたが、公開当時にすぐに見に行って受けた衝撃によりその後数日は映画のことが頭から抜けず、劇場へ何度も見に行くことに繋がりました。
そんな傑作の前日譚が製作されるとなったら期待しないわけがないのです。ただ、その一方で不安もありました。ただの縮小再生産だったらどうしよう、、、この不安は杞憂でした。ジョージ・ミラー監督は新たな伝説を刻んでくれました。
本作の主人公はシリーズでお馴染みのマックス・ロカタンスキーではなく、「怒りのデスロード」で活躍したフュリオサとなります。彼女が故郷である緑の地から誘拐され、様々な事があった末にイモータン・ジョーが支配するシタデルにたどり着くまでが描かれるわけですが、前作との明確な違いはストーリー上の時間経過が長期にわたっていることです。
「怒りのデスロード」は作中で進行している時間はせいぜい3日程度で、行って帰ってくるだけのシンプルな追いかけっこを描いた映画です。一方で「フュリオサ」の場合は幼少期から始まり、復讐を誓う相手との出会い、シタデルでの生活とおそらく10年以上の時間が描かれています。全5章の章立て形式、映画の上映時間も148分と長尺になりました。他のシリーズ作品も数日間の出来事を描いているのが大半であり、本作はシリーズ中でも異色です。そのため必然的に作風にも変化が見られました。
前作は一瞬たりとも止まらない活劇の連続で観客を2時間ハイな気分にさせてくれる最高の娯楽映画であったわけですが、バイオレンスの応酬が描かれる中にフュリオサやイモータン・ジョーの子を産ませるために囲われているワイブズたち虐げられた女性たちを開放するフェミニズム視点も目立っていました。「フュリオサ」では被害者側である女性自身が主人公となることで、よりフェミニズムの要素を強調するように思われましたが、本作では「報復」という行為に疑問を提示することで、単に暴力とその被害者の二項対立となることを避けているようにも感じられます。
一般的な復讐もの映画は冒頭で主人公または、その家族が酷い暴力を受けます。暴力を行った本人もしくは悪人や世間などに対して報復していくのが基本的なプロットであり、復讐が果たされることでカタルシスを生んでいますが、マッドマックスの1作目がまさにそういった映画でした。以降は「2」の超絶カースタントシーンや「怒りのデスロード」のウォーボーイズの華々しく散っていく様など暴力が生み出す劇的な魅力によって牽引してきたシリーズだと言えます。家族を殺された主人公による復讐といえば「フュリオサ」も共通していますが、本作では魅せるための暴力をなるべく描かないことで暴力活劇、復讐劇として消費されることを回避している印象です。拷問シーンであっても具体的な行為は不明瞭ですし、ウォーボーイズ達は何かを言い残す前に画面の隅で命を落としていくのが大半です。レーティングへの意識もあるのかもしれませんが、血や傷口をじっくり見せてゴアな表現で満足させることもないのです。
女性が暴力的な男性に同じく暴力で報復する。それは痛快ではありつつも、性差を前提とした娯楽であり、ある種の性的消費とも言えます。そういったシンプルさを選ばないところに、フュリオサ自身の物語を描く意図が見えます。復讐者の一番の望みは奪われたものを取り戻すことにあります。しかし、それは絶対に叶わないことでもある。では、どうするのか?どうすればよかったのか?終盤の報復の行方は暴力と報復が続く世界に対しても疑問を投げかけるものだと思います。「怒りのデスロード」でイモータン・ジョーに向けられた”Remembrance me?”は個人的な過去の暴力に対する言葉として受け取っていましたが、本作を踏まえるとあの言葉は、虐げられてきた人々の気持ちを代弁するより大きな意味を持つものだったのではと解釈できたのです。
本作の章立ての形式、語り部の存在、ラストの悪人の顛末など神話的なスタイルに違和感を持つ人もいるかも知れませんが、その点についてはジョージ・ミラー監督の前作『アラビアンナイト 三千年の願い』をご覧いただくと理解しやすくなると思います。”Remembrance me?”と問うたところで人をモノとして消費することしか考えていないような外道が覚えているわけがありません。そうでなくとも個人の存在を未来永劫記憶に残す事はできません。人の生きた証は物語り、記録されることでのみ残るのです。物語ることで伝えられる人々のあり方、生き方を描いた『アラビアンナイト 三千年の願い』は「フュリオサ」が描こうとした神話とも非常に近しいテーマの作品です。
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