以前紹介した『ホドロフスキーのDUNE』でフランスのプロデューサー、ミシェル・セドゥと再会したホドロフスキーが23年ぶりに撮った新作を紹介します!相変わらずエッジの利きまくったカルト映画となってますぞー
ヘンテコ映画
本作は監督のアレハンドロ・ホドロフスキーの自伝が元となっています。なので、主人公は幼き頃の監督自身となっています。ですが、本作は完全に事実のみを描いたものではありません。舞台は1920年代の軍事政権下のチリとしていますが、町の様子を当時そのままに再現しようとはしていません。監督自身の子供のころの目線を再現したものなので、かなり誇張が見られ、時代考証はエー加減です。ただ、そんなことは本作においては些細なことです。開幕早々大写しになる監督自身と、わかるようで分からないようなお金に関する説教、続くサーカスの人々と謎の連発です。さらには、大波で魚が大量に打ち上げられるわ、魚を狙って鳥が襲ってくるわと前半の時点でお腹いっぱいになるほどに衝撃のビジュアルの連続です。おなじみのフリークスの人々(極端に小さい人、手足のない人々など)もガッツリ登場。本作はCGや特撮に依存せずに(使ってないわけではありません)ひたすら物が持つパワーをこれでもかと見せつける圧倒的な映像の力のある映画であり、こうしたビジュアルが事実とのズレや差異を吹き飛ばしてしまうのです。おそらく、ホドロフスキー映画を見たことのない人は意味不明と感じて混乱してしまうでしょうが、大事なのは映像に身を任せてしまうことです。考えるのは観た後からでも遅くはありません。なんでしたらもう一度見るのもアリです。ハマってしまう人は何度も見直すことになるかもしれません。そして、場合によっては人生観まで変わってしまうかもしれません。こうした点がカルト映画の「カルト」たる所以であり、ホドロフスキーが23年間の沈黙の後にも作品が熱狂を持って迎え入れられることにつながっているのです。
まさかのミュージカル!?
本作のタイトルには疑問を抱く人が多いと思います。ミュージカルでもないのに?と言いたくなるでしょう。ですが、間違いなくミュージカルなのです。京都大学の教授で、映画学者の加藤幹郎先生によれば、ミュージカルとは歌と踊りによって世界を躍らせ、地上に楽園を作り出すものとのことですが、まさに『リアリティのダンス』はそういう映画なのです。オペラ歌手のように話す母親、唄と踊りを幼きホドロフスキーに教える行者、馬と踊る独裁者、フリークスの合唱など歌や踊りのイメージはそこかしこに存在します。そして、これらのシーンは少年時代のホドロフスキーにとってあまりにも厳しい現実を生き抜くための楽園を作る手段であると言えるのです。
フロイト的精神治療の一環としての映画製作
ホドロフスキーはサイコマジックという心理療法を開発した人物でもあるのですが、これは胡散臭い儀式的な行為と対話によって無意識を浮かび上がらせ、乗り越えさせるというもの(だったと思う)。精神分析の大家フロイトの影響が強い療法です。この療法の実践として本作は作られてまして、映画内で少年時代を再現し、部分的に自らも出演、息子たち(5人いたのですが、95年に三男は事故で亡くなっています)を重要な役に配することでホドロフスキーが自らに治療を施すということをしています。厳しすぎるほどに抑圧的で男根主義的な父親を長男ブロンティス、厳しさを乗り越える教えを授けてくれた行者を次男クリストバル、革命戦士だった父親の仲間の一人を五男アダン(本作の音楽も担当)にそれぞれ演じさせています。しかも当時住んでいた町で撮影し、消失していた家までも再現するこだわりよう。長男ブロンティスはホドロフスキー監督の出世作『エル・トポ』で監督が演じる主人公の息子役で出演していたことで有名で、それから何十年もたって今度は父の父親を演じるという不思議な状態。こうして実の家族と作っていく過程で、抑圧的な父親を救済し、オペラ歌手の夢を捨てて売り子になった母を慈愛に満ちた存在へと認識を改めていく精神治療が本作の肝となります。なので、前半の少年時代の再現から後半は父親を中心とした物語にシフトチェンジします。終盤にかけての映画的な奇跡の瞬間はなかなか見ものですぞ!
息子のムスコも上映中w
ホドロフスキー監督作品を観たことのない人に注意しておいていただきたいのが、ホドロフスキー映画は基本的に暴力的な描写が多いことと猥雑な描写も多いことです。芸術映画には違いないのでしょうが、その描写の俗っぽさはなかなかのもの。グロテスクな描写やセクシャルなイメージが苦手な方には厳しい部分もあるかもしれません。しかも一部のシーンでは監督の息子のムスコが映りますw ガチの黄色い聖水も飛び出ますw ボカシが入る場面もありますが(渋谷のアップリンクでは無修正版を上映中!)、そのまんまの場面もありますw まさかブロンティスも『エル・トポ』から何十年もたってまた出すとは思わなかったでしょうね!
ヘンテコ映画
本作は監督のアレハンドロ・ホドロフスキーの自伝が元となっています。なので、主人公は幼き頃の監督自身となっています。ですが、本作は完全に事実のみを描いたものではありません。舞台は1920年代の軍事政権下のチリとしていますが、町の様子を当時そのままに再現しようとはしていません。監督自身の子供のころの目線を再現したものなので、かなり誇張が見られ、時代考証はエー加減です。ただ、そんなことは本作においては些細なことです。開幕早々大写しになる監督自身と、わかるようで分からないようなお金に関する説教、続くサーカスの人々と謎の連発です。さらには、大波で魚が大量に打ち上げられるわ、魚を狙って鳥が襲ってくるわと前半の時点でお腹いっぱいになるほどに衝撃のビジュアルの連続です。おなじみのフリークスの人々(極端に小さい人、手足のない人々など)もガッツリ登場。本作はCGや特撮に依存せずに(使ってないわけではありません)ひたすら物が持つパワーをこれでもかと見せつける圧倒的な映像の力のある映画であり、こうしたビジュアルが事実とのズレや差異を吹き飛ばしてしまうのです。おそらく、ホドロフスキー映画を見たことのない人は意味不明と感じて混乱してしまうでしょうが、大事なのは映像に身を任せてしまうことです。考えるのは観た後からでも遅くはありません。なんでしたらもう一度見るのもアリです。ハマってしまう人は何度も見直すことになるかもしれません。そして、場合によっては人生観まで変わってしまうかもしれません。こうした点がカルト映画の「カルト」たる所以であり、ホドロフスキーが23年間の沈黙の後にも作品が熱狂を持って迎え入れられることにつながっているのです。
まさかのミュージカル!?
本作のタイトルには疑問を抱く人が多いと思います。ミュージカルでもないのに?と言いたくなるでしょう。ですが、間違いなくミュージカルなのです。京都大学の教授で、映画学者の加藤幹郎先生によれば、ミュージカルとは歌と踊りによって世界を躍らせ、地上に楽園を作り出すものとのことですが、まさに『リアリティのダンス』はそういう映画なのです。オペラ歌手のように話す母親、唄と踊りを幼きホドロフスキーに教える行者、馬と踊る独裁者、フリークスの合唱など歌や踊りのイメージはそこかしこに存在します。そして、これらのシーンは少年時代のホドロフスキーにとってあまりにも厳しい現実を生き抜くための楽園を作る手段であると言えるのです。
フロイト的精神治療の一環としての映画製作
ホドロフスキーはサイコマジックという心理療法を開発した人物でもあるのですが、これは胡散臭い儀式的な行為と対話によって無意識を浮かび上がらせ、乗り越えさせるというもの(だったと思う)。精神分析の大家フロイトの影響が強い療法です。この療法の実践として本作は作られてまして、映画内で少年時代を再現し、部分的に自らも出演、息子たち(5人いたのですが、95年に三男は事故で亡くなっています)を重要な役に配することでホドロフスキーが自らに治療を施すということをしています。厳しすぎるほどに抑圧的で男根主義的な父親を長男ブロンティス、厳しさを乗り越える教えを授けてくれた行者を次男クリストバル、革命戦士だった父親の仲間の一人を五男アダン(本作の音楽も担当)にそれぞれ演じさせています。しかも当時住んでいた町で撮影し、消失していた家までも再現するこだわりよう。長男ブロンティスはホドロフスキー監督の出世作『エル・トポ』で監督が演じる主人公の息子役で出演していたことで有名で、それから何十年もたって今度は父の父親を演じるという不思議な状態。こうして実の家族と作っていく過程で、抑圧的な父親を救済し、オペラ歌手の夢を捨てて売り子になった母を慈愛に満ちた存在へと認識を改めていく精神治療が本作の肝となります。なので、前半の少年時代の再現から後半は父親を中心とした物語にシフトチェンジします。終盤にかけての映画的な奇跡の瞬間はなかなか見ものですぞ!
息子のムスコも上映中w
ホドロフスキー監督作品を観たことのない人に注意しておいていただきたいのが、ホドロフスキー映画は基本的に暴力的な描写が多いことと猥雑な描写も多いことです。芸術映画には違いないのでしょうが、その描写の俗っぽさはなかなかのもの。グロテスクな描写やセクシャルなイメージが苦手な方には厳しい部分もあるかもしれません。しかも一部のシーンでは監督の息子のムスコが映りますw ガチの黄色い聖水も飛び出ますw ボカシが入る場面もありますが(渋谷のアップリンクでは無修正版を上映中!)、そのまんまの場面もありますw まさかブロンティスも『エル・トポ』から何十年もたってまた出すとは思わなかったでしょうね!
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